愛されない妻たちが挑んだ女の賭けとは?

続・おもしろ聖書エッセイ!For Women

バイブル中の美しい女性達のドラマがコミカルなエッセイに!

愛されない妻たちが挑んだ女の賭けとは?

苦悩を秘めたレアの心の小箱

この日本に居て、一夫一婦制度が喜ばしい事なのだと常々感じる女性は、余りいないかも知れませんね。「一夫多妻」?そんな事は自分に関係ないと思うのが当然の反応でしょう。 但し、愛する夫に他の女性・・愛人・・がいることが発覚し、それを知ったときは別問題ですがね。

これから、登場する女性達は一夫多妻(妻は二人)社会の中にいました。そして、残念ながら、夫の「お気に入り」つまり、「寵愛を受ける」ほうの妻にはなれないままに、生涯を送りました。そんな女性たちの気持を考えてみたことのある人は少ないかもしれませんね。私たちは、どちらかというと常に愛される側のヒロインに、自分を置いて・・その立場で本やドラマを見る傾向があります。しかし時には、愛されなかった妻の側の感情をも理解しておくのは自分の成長に益するように思えます。

という訳で、今日は聖書から「レア」と「ペニンナ」という二人の女性を選びました。二人は、それぞれ生きた時代は全く違います。ところが二人には大きな共通点がありました。それは悲しいことに、夫に「愛されない側の妻」であったという点です。

先ずは、レアについてです。彼女の夫は、ヤコブでした。そして、彼女の生涯のライバルとなったのは実の妹ラケルでした。なんと、残酷な姉妹の人生なのでしょうね。(おもしろ聖書エッセイ・Part1参照) そう、妹ラケルのほうは、夫ヤコブに深く深く愛されて生涯を送りました。姉レアのほうは、妻として特別に夫から憎まれたりされた訳ではありませんでしたが、生涯ラケルへ注がれたような寵愛は受けずに、一生を送っています。(創世記29章)

後代に生きた「ペニンナ」と言う女性は、夫エルカナの妻でした。レアと同じように深く愛されずに人生を送りました。彼女のライバルは、ハンナというもう一人の妻でした。深い寵愛を受けた女性で、聖書中では、神への信仰が模範的とされている女性です。(サムエル記上1章)

レアとペニンナ!ふたりとも、夫の「寵愛を受ける」には、どうしてもなれなかったのです。常に、生活上の些事に於いても、夫からライバルより後回しにされる辛さを噛み締めながら生活していたのでしょう。

もしも、私たちがそのような立場でしたら、どうなさいますか。自立して離婚なさいます?現代なら、それも可能かもしれませんが、当時の背景や環境は、女性には、そう甘くはなかったのです。世間の嘲笑を浴びるでしょうし、まずは、「生きる」ことさえ苦渋でありストレスで死んでしまうかもしれませんよ。古代の社会で生きていなくて良かったですね。

では、この二人はそんな社会的背景や風習の中で、夫から愛されるために、どうするでしょうか?なんと、全く同じことを成し遂げようとして努力したようです。 おそらく・・・ライバル妻から、夫の「より強い愛情」を奪うべき手段は、これしかない!と思えたのでしょう。それは、女の人生の”賭け”のようなものでした。何をしたのか?

その前に、彼女達の”賭け”の生き様を理解するための予備知識を、ちょっと説明させて貰いますね。 実は、かの有名なモーゼの律法の中には、夫たちに対するこんな興味深い命令がありました。「もし彼が(夫)、たとえ他に(妻を)めとることがあっても、彼女の食物と衣服と夫婦の道とを絶えさせてはならない」。(出エジプト記21章)一人の妻以外にも、どうしても妻を持つならば・・・どの妻にも必要な『三つの事』は果たすように・・という掟でした。

そうなんです!これが、彼女達「深く愛されない側の妻たち」には、人生を懸けさせるだけの価値ある「希望の光」だったのでしょう。レアはこの掟が与えられる前の時代の女性でしたが、夫ヤコブは人道的にこの三つをしっかり果たしたものと思われます。 ペニンナは、この掟の後の女性ですから、掟から確り益を受けたと思われます。

さて、この三つのうちのどれに、人生を「賭けた」と思われますか?いや、むしろ人生を「懸けた」の方が適切な表現かもしれませんけれど。 そう、三番目の「夫婦の道」です。これを活用すること、つまり、「子供を産むこと」でした。それも、「命の限り多く・・・多産」です。当時、「子」は・・神の祝福の一つと考えられていましたから、世間からも誉ある妻となれるのです。当然、夫にもライバル妻よりは、子供の数の多さゆえに、愛情が注がれて絆が深まり、さらには尊ばれると思ったのでしょう。なにより、ライバルの女性に対して「勝利」の歓喜を味わえたのでしょう。哀れに感じますね。

それが、私の勝手な推論だけでないのが、分かるのですよ。聖書中にこんな部分があります。レアが6人目の子をヤコブに対して産んだ時に、切ない女性の胸のうちが表現されています。「私は、六人の子を夫に産んだのだから、今こそ、彼は私と一緒に住むでしょう」(創世記30章)。ああ、なんという発言でしょうね。

この一節、何気なく読み進んでしまいそうな言葉ですが、彼女のこのセリフには、当人以外には想像が及ばないほどの悩みと口惜しさと辛さが、込められているように感じますね。彼女は産めるだけ産んで「夫の深い愛情」の寵愛をラケルから自分自身に向けたかったのでしょう。この必死の努力は、ある程度は実を結びます。なぜなら、その結果、ライバルの妹ラケルは死の直前に産んだ子供を含めても、たったふたりだけに対して、レアのほうは最低でも男女7人(記録から)を産みました。しかし、夫からの願ったほどの愛情は得られなかったようです。

出産合戦は続きます。今度は姉レアとラケルは、それぞれの召使の女性を夫へ差し出して、子供を持とうとするのですよ。それぞれが、召使を通して、子供を儲けるのですが・・・そこまで、頑張ります。でも、夫のほうは、何も変わりません。レアにとって、なんという人生でしょうね。しかしながら、子供たちの存在が彼女にとって人生の慰めになったに違いない、と勝手に解釈して安堵したいものです。

ペニンナも、同様でした。何人もの息子達や娘達に恵まれたようです。子供を沢山産む事に人生を懸けたのでした。彼女もやはり、夫エルカナの愛情を勝ち得ることは難しかったようです。ペニンナは、結局負けていました。彼女の口惜しさや苦悩の矛先は、ライバルである妻ハンナに向けられもしました。「彼女(ハンナ)を憎んでいる他の妻(ペニンナ)は、酷く彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされた事を恨ませようとした」(サムエル上1章)と記録されています。 不妊で悩んでいた愛される妻ハンナを、その弱点をついて「いじめる」という行為にも出たようです。(気持ちは分るが、これはいけませんね)こうして愛されない二人の女は、出産に賭けて勝負に挑みますが・・夫に関していえば、敗けましたし、子供についても、ハンナは神へ誓願を立てて、子供をついに儲けますから、敗者となりました。

こうして、レアとペニンナのふたりは、生涯を閉じていきます。夫に「より愛されない妻たち」「寵愛を受けたい妻たち」が、実際に哀れな人生を過ごしたのか否かは、想像する以外には、定かではありません。あくまでも、推測です。ついでに、さらに、憶測していきますと・・・。

もし、レアとペニンナの二人が性格的にも思考パターンに於いても、ポジティブで楽観的であれば、やがて夫についてはサラッとあきらめていたかもしれませんね。子供の数が多かったので、子供たちの成長に伴う喜びも多々ああったと思えるので、円満具足な生涯であったかもしれません。

現代であれば、夫の愛情争奪戦に生きるのではなくて、メンタル的にも社会的・経済的にも自立して、自らを平安の内に置けるのですが、古代女性たちにはそれは不可能でしたね。それにしても、こうした女性達の辛抱の世代の積み重ねが連綿とあってこそ、今の私たち女性の健全ともいえる立場があるのですから、感謝です。

「一夫多妻制」という慣習は神が決めたものではありませんので、女性の心に多くの重荷を負わせるものでした。現代日本は、多妻ではありませんが・・妻にとって夫に愛人が存在すると言うのは過酷ですね。闘う手段としてレアとペニンナに倣うか否かは別としても、心の負担はいかばかりでしょう。

通常は、名実共に一夫一婦制が、女性には喜ばしい取り決めであると気が付きません。でも、それを当然と思うか、良かったと思うか、ちょっと考えるのも、時には良いのではないでしょうか。愛されない妻たちが挑んだ女の賭け!レアとペニンナのふたりの女性たちのような戦いがないだけでも、幸せと言うものですね。

written by 徳川悠未