たった一度の失言で結婚を墓場にした女性?

続・おもしろ聖書エッセイ!For Women

バイブル中の美しい女性達のドラマがコミカルなエッセイに!

たった一度の失言で結婚を墓場にした女性?

王の娘だったミカルの寂しい心象

もしも、あなたが「たった一度だけ失言」してしまいその一言のために愛するご主人から嫌われてしまい、結婚生活が墓場になったなら・・・どうなさいますか?そのまま、苦渋に満ちた生活を続けるように、努力なさいますか?それとも・・・。 昔々、たったの一言で、夫からの愛情を失い、死ぬまで嫌われてしまった女性がいました。 愛し愛されて結ばれて、自らの危険も顧みずに夫の命を守り通したこともあったのにです。

その女性とは、聖書中に登場するミカルです。ミカルは、サウルというイスラエル最初の王の娘でした。まだ、若かった頃に、サウル王に一時仕えていたハンサムなダビデを愛してしまいます。父である王に、政略に利用もされますが、彼女は好きなダビデと結ばれ最初の妻になりました。この頃が、ミカルの生涯中で、最も愛情溢れる結婚生活だったことでしょう。

父サウル王は、斑気な人物に加えて、自分の王の立場に不安があり、常に娘婿ダビデへの不信感と妬みで気持が揺れ動いていたようです。 そして、これが、哀れにも、彼女の人生を波乱に満ちたものにしていくのです。父である王はダビデを殺そうと何度も試みます。初妻ミカルは、どうするのでしょうか?王である父の味方として、なすがままに任せるのでしょうかね?

そうではありませんでした。彼女は、深く深くダビデを愛していたのです。父親を敵に回してまで、ダビデの危機を救って、父親を欺いてまで、夫を逃がしたりもしました。ダビデを本当に愛していたのですね。身内を敵に廻すほどに、夫を愛するには、それ相当の覚悟がいりますから。

ミカルは、そのような経緯から、逃亡生活に入る夫ダビデとは別れ別れになります。きっと、こんな風に思っていたかも知れませんね。『離れ離れになろうとも、私たち夫婦の愛は変わらない。夫が生きながらえてくれさえすれば、いつか、きっとまた会える。』と。ところがです。怒った父の企みにより、ミカルは他の男性パルテエルの妻にされてしまいます。ドラマチックですね。彼女は、仕方なく従いました。しかし、どんな気持ちでパルテエルと結婚生活を送ったのでしょうね。

ミカルは、常にダビデのことを思い出し、愛し続けていたのでしょうか?これは、大いにありうることです。それとも、過去を消し去り、幸福な結婚生活を送っていたのでしょうか?詳しくは、勝手に推測するしかありませんね。ミカルの新しい夫パルテエルの方はというと、ミカルを深く愛していたようです。ですから、王の娘でもある妻ミカルを大切にしていたのでしょう。ミカルは、この人の情にほだされてしまっていたのでしょうかね?様々に、空想するのは興味深いですよ。

やがて時は過ぎ、父である王サウルが死にました。サウルに代わってダビデが王となります。それで、ダビデは王としての権力を使って、パルテルからミカルを取り戻すことにするのです。王ダビデには、もう、既に結構な人数の妻がいたのですが・・・。

さて、愛する妻ミカルを取り上げられたパルテエルは男泣きしますよ。泣きながら、自分を離れて行く彼女の後を何処までも追いかけて、ついてくるのです。まあ、それほどまで、パルテエルにミカルは愛されていたことが、これで分かります。当のミカルには、彼に対して未練がなかったのでしょうか。(サムエル記下3章)ダビデの妻に戻れたことを『長い時が経ったけど、願いが叶ったわ。』と歓んだのでしょうか?聖書には、その辺りの記録がないので、同じ女性として、十人十色の想像してみてください。

やがて、ダビデに還ったミカルは、他の妻たちと同様に暮らします。それに、満足していたのか、不満があったのか、寂しかったのか、平安だったのか、は知る術はありません。しかし、間もなく起きる夫婦の出来事から、そのミカルがダビデのところへ戻ったのが、幸せで充足感があったのか否かを窺い知ることが出来ます。

それが、彼女の人生最大の「失言」の場面です。

ある日、無邪気な夫ダビデ王が信仰上で、嬉しい事があり、神への感謝の表れとして家来やはしためと一緒になり、裸同然で踊りまくります。その王である夫の姿を見たミカルは「・・・心のうちにダビデをさげすんだ」のです。(同6章) これは、聖書的には神への信仰の欠如とされたのでしょう。だが、それを彼女が口に出しさえしなければ、彼女の後の人生はまずまず、快いものだったかも知れません。

ところがです。長い間の不満が溜まりに溜まっていたのでしょうか、ダビデに対して一言!嫌味が口を突いてしまいます。 「今日、イスラエルの王は何と威厳のあったことでしょう。いたずら者が恥も知らずその身を現すように・・今日、家来達のはしためらの前に自分の身を現されました」。(同6章)

このミカルの一言に、ダビデは明らかに怒ります。要約すると「あなたの父よりも私は神に愛されている。それで、王としてくれた神の前に踊ったのだ。神のためならば、これからだって人前でもっと軽んじられるようにするつもりでいるのだ。」つまり、妻ミカルの皮肉った嫌味に向かって、もっともっと軽蔑するが良い!自分は神に感謝と信仰を抱き続けるんだから!と、答えた訳ですね。確かに、ダビデ王は素晴らしい信仰の持ち主でした。

その事件の後、ミカルは妻とは名ばかりになります。全く夫婦関係はないも同然となり、子供も出来ずに哀れな生涯を送ることになってしまいます。おそらく、ダビデは、他の妻たちのもとを訪ねはしても、ミカルの所には再び訪ねる事もしなくなったのでしょうね。

ここから、またしても勝手な推測です。考えたいのは、失言をする前のミカルは本当にダビデとの結婚生活に幸福感を得ていたのでしょうか、という点ですね。彼女は、実際には充足感のないままに、妃として暮らしていたのではないのか、とも考えられませんか?長い結婚生活ですから、夫ダビデの時に短絡的な判断力や行動の傾向を、全く知らないでいるはずはありませんね。たとえ、彼女に高慢な性質が宿っていたとしても・・・余りに愚か過ぎるのです。生涯を棒に振るのは、分かっていたでしょうに・・。

逆に、ダビデという人について言えば、情に呑み込まれ易いタイプで憐れみの持ち主でしたから、ミカルの軽率な一言を、生涯にわたって許さなかったのも不思議ですね。(まあ、それでもダビデという人については、現代女性からすると理解不能な男性の部類の独りでは、あるでしょうが)だとすれば、この事件の時には、既に、ダビデとの関係が冷えていたと思われますね。だからこそ、この嫌味の一言が彼女の口に語らせたのではないでしょうか?(しかも、名誉挽回の機会も与えられなかったのです。)同じ女性としては、同情心と併せて教訓も得られますがね。きっと、寂しい妃として暮らしていたのでしょう。よもや、愛情に満ち足りた幸福な結婚生活だったとは、想像できません。故に、時には、パルテエルの優しい関心を得ていた頃をも、思い出していたかもしれません。これもそれぞれで、感情移入して想像しましょう。

このような嫌味な言葉が出てしまうには、関係が冷えてきているからと言える、もう一つの根拠はですね。通常から夫婦愛があれば、時には、こんな嫌味の一つや二つは、あり得て普通と思えるのです。例えば、聖書に登場する人の中で、特に、厳しい試練を耐えたヨブという神への忠節心で有名な人がいるのです。そのヨブの妻の一言は、もっと酷いものでしたよ。試練で全身、苦痛に喘いでいる夫ヨブへ向って「あなたは、なおも堅く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい!」と語るのです。(ヨブ記2章)それでも、この夫婦の愛情は冷えませんでした。生涯の最後まで、共に暮らしますよ。(勿論、妻は一人でしたが)

それこそが、互いに完璧ではない人間同士の結びつきにおいては、当然の姿勢いわば偕老同穴、死ぬまで仲良く・・・あるべき姿勢ですね。ですから、普段から妻は夫との愛を育んでおくのは、最善です。そうであれば、偶に、一言「嫌味」を言っても、許されるかもしれません。

それでも、「一言以上の嫌味や皮肉」をたっぷりと言いたくなった場合は、その衝動に駆られる自分の気持ちを分析し、根深い不平不満というマイナスの感情を、取り出して捨ててしまうのが賢いようです。もしもの場合を考えて・・・絶対に、ミカルと同じ轍を踏まないとも限らないのですからね。

結婚生活が、ある日から名実ともに、墓場になってしまい・・・寂しい妻として死ぬのは余りにも惨めですね。時には、喧嘩しながらも、概は仲良しこよしで、老後に突入できますように。やがては、それぞれが何れ人生を閉じるのですからね。

では、夫婦の愛情が冷えてきていると感じる時期には、特に「たった一言の嫌味な言葉」で、墓場の人生が決定的になってしまう危険がある、ということです。これは、夫婦関係のみならず、全ての対人関係に当てはまるかも知れません。まさに、口は禍のもと、とはこのことですね。たった一度の失言で結婚を墓場にした女性ミカルでした。

written by 徳川悠未