男運に恵まれなかった女が脚光を浴びる?

続・おもしろ聖書エッセイ!For Women

バイブル中の美しい女性達のドラマがコミカルなエッセイに!

男運に恵まれなかった女が脚光を浴びる?

ついに人生に華を捉えた女

その女性は、真昼時を選び人目を避けて公共の井戸に水汲みに来ていました。 イスラエル地方サマリアの、スカルと言う土地にあるヤコブの泉という井戸です。 いつも通りの筈でしたが、そこには見知らぬ一人の男性が座っています。どうやらサマリア人ではなくユダヤ人に見えます。

そうであれば、決して話す事は勿論・・近づく事さえ躊躇したことでしょう。 なぜなら、ユダヤ人とサマリア人との間には過去からの確執があったようですし、全く交渉をもちませんでしたから。ユダヤ人は、サマリア人と交際していませんでした。(ヨハネ4章より)

チラッ!と見知らぬ男性の、その姿を見たこの女性は、恐る恐る井戸に向かって歩を進めると・・突然、その男性が彼女に声をかけて来ます。

「水を飲ませてください」。何という事でしょう!この女性の驚き様を想像してみてください。『ユダヤ人の、しかも、男性がこの私に水を飲ませて欲しいと依頼するなんて、信じられない。』そう思ったでしょうね。ですから、咄嗟に出た返答は彼女の本音でした。 「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリアの女の私に、飲ませてくれとおっしゃるのですか?」というものでした。率直に、本当の疑問を投げかけた訳です。

すると、どうでしょう。またもや、その男性は穏やかな口調で、言葉を出し、続けます。「自分(男性自身のこと)が、誰なのかを知っていたなら、あなたの方がわたしに水を求めたでしょう。」と。

ユダヤ人の人間が、自分に対して、こうして話すことだけでも戸惑っているのに、彼女は、今度は別の意味で驚かざるをえません。なぜなら深さ23メートル以上もあろうと思える井戸から、彼は水を汲む道具一つ持っていないのに・・・どうしてそんな事が可能でしょう。出来るはずがなりません。

理解不能状態にいる女性に対して、男性は文字通りの水ではなく『永遠の命を与える水』という比ゆを語っている意味であることを、示していかれます。これに、サマリアの女は、すぐ反応します。「それなら、私に下さい。」正しい意味を悟ったか否かは別として、素直な気持ちだったようですね。これらを推測すると、彼女は非常に率直かつ純粋な特質に思えますね。さて、彼女のこの願いに対して、男性は、どうお答えになるのでしょうか?

その男性は、言われます。「あなたの夫を呼んで、ここに連れて来なさい。」 この言葉には、女性は困惑した事でしょう。なぜならば、今、正式に夫ではない人と暮らしていました。どう答えようか迷った事でしょう。しかし、言い難そうにしながらも、彼女は正直でした。「私には、夫はありません。」

この女性が、自分を繕うこともせず、余りに真実な答えに感心を込めた男性が、次に出す言葉には、驚き以上のものがありました。要約すればですが「あなたには、これまで五人の夫があったが、今の人は夫ではありませんね。』というものだったからです。彼女は、怒ったでしょうか?いいえ、彼女自身にとって触れられたくない過去の自分を知っている見ず知らずの男性を、驚きのあまり凝視したに違いありません。そして内心『この人はいったい誰なのだろう?』とも考えた事でしょう。

実際、彼女は五回も結婚していた過去があったのでした。死別或いは離別なのかを聖書は詳しくは記録していませんが、彼女はいわば、よく言われる『男運』がなかったようです。世間の噂にもなってきたことでしょう。それは、他の人と出来る限り、出くわさないようにと、水汲みの時間をずらしていたことから、世間から身を潜めるようにしていたらしい、と想像できます。もしかしたら、神からの祝福のない悪女としても評価されていたかもしれまん。

しかしながら、彼女は自分が何と言う名誉をこの場所で得たことかを・・この日、自覚する事になります。そして同民族サマリア人の間で大いに脚光を浴びるようになるのです。なぜでしょうか?

なぜなら今、彼女が話している男性は、イエス・キリストだからなのでした。彼は旅の途中、疲れてしまい井戸のところで休んでいたのです。彼女は、黄金タイムに出会えたのです。

そして、彼女は、正しい崇拝の仕方について直接教えていただきます。水瓶もほったらかしのままに、喜び勇んで町に駆け出し、自分がたった今経験した出来事を人々に知らせます。この時代、モーセ五書(旧約聖書の一部)には通じていたサマリア人達は、モーセのような預言者キリストを待ち望んでいましたから、この女性の話に驚嘆します。 女性は自分が夫達に恵まれなかった過去を恥じずに、世間の人々に言います。 「私のしたことを何もかも言い当てた人が居ます。もしかして、この人がキリストかも知れません。」関心を持つ多くの人々は、町を出てぞくぞくとイエスの所へ集まるのです。

その時点での、彼女の精神の高揚が想像できますね。まるで名誉を挽回したかのような感覚にも捉われ、どんなにか喜んだことでしょう!こうかも知れませんね。『この私が、口さえ利かないユダヤ人の・・・しかもキリストから声をかけられた』のですから!(ちなみに、ユダヤ人の立派な男性は、女性と道端で話すのでさえ、恥とされていた時代背景があります)

それから、どうなりましたか?サマリアの人々はキリストに信仰を持ったようです。 この大きなハプニングは、彼女にとって、生涯忘れなかったことでしょう。生きていく上での、大きな励みと動機付けを得たことでしょう。

時には、自分の境遇を悲しんでしまうことがあっても、この日の出来事を思い出して自尊心を取り戻し、奮い立つことが出来たかも知れません。彼女の人生に大きな影響を与えたのには間違いありませんね。世間で言う『男運』に恵まれなかった女性の人生に「華」が添えられたのです。

この記録から、女性として学ぶ多くの教訓が得られました。人間のどんな違いにも偏見を持たないキリストの精神態度、女性の勇気ある正直さなどです。他にも学びと適用があるでしょうね。それは、あなた自身が自由に考えて探してくださいね。人の事情も立場も皆異なるので、やはり十人十色の学びとなることでしょう。でも、その際には、このサマリアの女についても、他の誰についても、ジャッジしないようにしましょう。

そして、今は辛い人生だと感じている女性は、それでも強く明るく正直に過ごしているうちに、サマリアの女のように人生に「華」が咲き、生涯忘れられないほどの嬉しい経験が出来るかもしれません。脚光を浴びるか否かは、さほど重要なことではありません。それよりも、とにかく「正直」と「率直」に生きてみる。その報いが遅く感じても、諦めないで、前へ前へと歩み続けるなら・・・ですからね。男運に恵まれなかったサマリア人の女が脚光を浴びたように!

written by 徳川悠未