真の恋をするなら、やはり純愛?

続・おもしろ聖書エッセイ!For Women

バイブル中の美しい女性達のドラマがコミカルなエッセイに!

真の恋をするなら、やはり純愛?

ばら色の羽のように陶酔する純愛?

純粋な愛、ひたむきな愛!一昔前に、プラトニック・ラブと言うフレーズがありました。今時は、あまり風聞のない恋愛の形ですね。でも、数年前になるでしょうか、一時期、熱狂的に支持された韓国のドラマや他にも映画がありましたね。あれほど女性に感動とセンセーションを呼び起こしたのには、多分、純愛が珍しくなりつつある近年なので、希少価値があったのでしょうか。

さて、純愛ドラマに多くの女性が感動するのは何故でしょうか?純粋で打算がないから、あれこれと計算したりして損得を考えていないからかもしれませんね。また、自分を好きになる異性の数だけで、自尊心を満たそうなどという、愚かな野心もないですしね。一途に恋する相手の為になることだけに関心があるので、自分を犠牲にすることを厭わないとか・・。ただ、ただ・・若き日々に、ひたむきな恋心を貫く。そんな純粋さを、人間は心の奥深い部分で、自ら求めているのかもしれませんね。特に、女性には、そんな傾向があるのでしょうか?

では、「純愛」するに当たって、もしも・・・条件があるとすればですが、何が求められるのでしょうか?おそらくですが、その人の心がピュアであることでしょうか。相手の心をもて遊ぼうとする人には当然、無理ですからね。
年齢はどうでしょうか?年齢を重ねていき、恋の百戦錬磨になって上手に楽しむ人にも無理ですね。恋愛中とは言え、不倫には不安と嫉妬心が常に伴いますし、人を傷つけながらの恋は単なる身勝手だから、これも外れる。それで、消去法に則ると、残るのは先ず、独身男女に限られてきます。

さらに人生のどの時期が良さそうか?酸いも甘いも味わった人生の達人になるよりも、前段階の方が、夢の中で陶酔出来ると言うものでしょう。すると、やはり青春時代ですね。いやいや、年老いててもまだまだ、と言われる方もおられるかも知れませんが、これから紹介する聖書中の雅歌の「純愛」を考察すれば、神が独身の若き者たちに与えた特別の権利であると分るでしょう。まあ、独身であれば、年老いても大丈夫でしょうが。

この文学的価値の高い戯曲のような純愛は、神とイスラエル国家の関係、或いはキリストと信者との関係にあるべき愛の姿の象徴、と解釈する傾向があるようです。それにしても、これほど強く深く清く愛するゆえに生じる喜悦の絶頂が、聖書に書かれてあると言う事は、神が人間へ与えた歓喜を、感謝のうちに味わうようにと意図されて造られているのか?と、解釈してしまいます。それも、一理ありですね。

では、盲目的に恋に落ちるとはどうなるのだろうか?と思える部分を少しだけ・・。今は昔、大変美しい乙女がひとりおりました。彼女は、シュネムという所の田舎娘でした。ところが、その土地へエルサレムから来て宿営していたソロモン王の眼に、娘の美しさが、留まってしまいます。ここで、ソロモンの目尻の下がった顔を想像してしまいそうです。お金や権力に対しての力のない弱者である娘は、止む無く一旦、エルサレムへ連れて行かれます。

しかし、彼女のその心のすべてを占めるのは、勿論、王ソロモンなどではなく、故郷にいる一介の羊飼いの青年です。誰も邪魔してはいけませんね。娘が、苦悩のうちに語る青年についての言葉は、要約すれば「私の愛する方が、男性達の中に居るのは、林の樹の中に林檎の樹があるようです。私は深い喜びをもってその木陰を恋い慕い座ります。」(雅歌2章)つまり、他の男性はすべて・・勿論、ソロモン王を含めて・・くだらない雑木にしか見えない、と述べているのです。これは、娘の本心でしょう。

さらに、自分の愛する青年は「その頭は純金のようで、目は谷川に居る鳩のようです。乳で洗われて美しく座っています。その頬は香しい花の床、唇はゆりの花のようです。手は宝石をはめた金の円柱、腹はサファイアで覆った象牙の細工のようで、足は大理石の柱のようです。言葉は、はなはだ美しく、彼はことごとく麗しい。これが私の愛する方です。」(5章)まあ、ここまで来ると、ホール・イン・ラブ状態こそが、見事な芸術作品を生み出すのかもしれませんね。多くの麗しい言葉が湧き上がって、詩が出来るのもうなずけます。純愛に陶酔している時には、文学者やアーティストになりましょう。

しかし、この娘には、実際に、青年がそのように見え、また思えるのでしょう。愛する青年には、完璧で欠陥がないと感じているのです。冷静に考えれば、在り得ないような盲目的いや最早、妄想に近いほどの陶酔状態ですね。非常にピュアですね。恋愛は、いつか覚める幻覚のようなものと常々思っている人には、想像する以外には共感できかねることでしょう。それでも、覚めるまでの間でも、宜しいのでしょう。

それはさて置き、大切なのは、この「喜悦感と陶酔感」の深さですね。この娘のようになれば、世界はまさに、バラと黄金に埋め尽くされた夢の国になることでしょう。何があっても恐くないのです。愛の強さと死よりも強い恋心があれば、灰色の排気ガスで汚れた街の空気もマイナスイオンの優れた効果に変わるのかもしれません。だからこそ、純愛の最中には、娘達はまぶしく輝き美しくなるのでしょうか。体内を駆け巡る良性の分泌物質で心も充足し、負の感情からは遠のいていられるのかもしれません。敢えて、不満といえば、愛する者の姿や声が、聞けない日があれば・・・・とかでしょうか?

夜の闇さえも、年中、煌くイルミネーションで、きらきらと見えたりしているのでしょう。食事は、味は五感の一つですから、感じるに違いないのですが、相手と一緒ならば、どんなにマズイ味でも、最高のシェフの味付けのように、感じてしまうのかもですね。不景気で悩んでいる人の姿も目に映ることはないでしょうし、戦争が勃発してミサイルが飛んで来ても、愛する人と居られれば、怖くなくなり、微笑んでいるのかもしれません。なんと、幸せな日々でしょうね。経済問題も政治の不透明も、犯罪増加さえも、気にならないで「陶酔できる」のですからね。

こんな盲目に近い純愛を、日本全国の若者がしたとするなら、日本も明るくなり、活気付いたりしますかね?やがては、醒める夢の炎のような恋愛感情でも、その時々の人の感情をプラスにするなら、良いことでしょう。

青春時代に、こんな経験をするなら、愛についての学びもあるでしょうし、相手のために、将来へ向けてパワーをも発揮するでしょう。鄙びてしまう人生ではなくなるでしょうね。後々の人生の踏み台ともなる。恋人と言えばセックスパートナーとしか考えない、心貧しい今の世の中にあっても、独身女性の皆さんは、是非このシュラミの娘のような内面の伴った「純愛」をして、恋の醍醐味を味わってほしいものです。そう、真の恋をするなら、やはり「純愛」にしましょう。きっと、幸福の絶頂を経験し、人生に残る最高の日々となるのですから。

written by 徳川悠未